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ニッポンの中のアジア まかりとおる推定有罪 #5
 
-孤独といかに向き合い、うまくつきあうか-
 
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張さんからの手紙 Vol.5
拝啓

東京拘置所に移檻されてから3度目の夏を迎えることになりました。7月〜9月の間は冷房が入りますので、この中は6月が一番暑さを感じる時期です。いつもなら狭い独房の中に閉じこめられ、6月が過ぎていくことを冬眠する熊のようにじっと待ち続けるのですが、幸いにも今年は例年よりずいぶん早く梅雨入りしたおかげで、わりと涼しい日々を過ごしています。

6月8日付けのお手紙頂きました。貴重なアドバイスを有り難うございました。ガイドブックの原稿は初案を書き終えましたので、客野さんあてに送りました。平野さんにはコピーを差し上げられるよう、今度の面会の際に客野さんにお願いしておきます。あくまで初稿という感じで、いろいろ書き直さなければならない部分がたくさんあると思います。
原稿にこだわらずいろいろ工夫下さいますよう、よろしくお願い致します。

さて、体調を崩しておられたようですが、今は大丈夫でしょうか?
実は偶然にも平野さんのお手紙を頂く前日から、私も急におなかを壊して丸一週間ひどい目にあいました。(苦笑)

すでに4年間独房生活を強いられていることから、どうしても運動不足が解消できず、習慣的な慢性便秘に悩まされています。その上さらに、今回のように一週間近くもゲリに苦しむこともあります。この中に収容されてから一度も日射しを浴びたことがなかったし、10メートル以上まっすぐ走ったこともありませんでした。身体が弱まってくるのもある意味当然なのでしょうね。

 ご存知の通り、日本国憲法第36条には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定していますが、日本において「拷問及び残虐な刑罰」の定義はいったい何なのか?という疑問を感じざるを得ません。衣食住に困らなければ、人間の尊厳は守られていると言えるのでしょうか?

 よく考えてみると、社会秩序の維持という究極的司法の存在理由は、あくまでタテマエに過ぎず、ほんとうは司法の既得権維持のためではないかと思われ、腹が立ちます。収容者のために刑事施設が存在するのか、それとも刑事施設を存続させるために収容者が存在しているのか、ときどき気が散ってしまいます。

 裁判所が私の拘留を認めている理由は2つしかありません。

つまり罪証隠滅と逃走の恐れを防ぐためなのです。しかし、すでに一審、二審の裁判が全部終わっていますので、罪証隠滅なんかしたくてもできるはずがありません。ならば、残る拘留理由はただひとつ。逃走の恐れなのですが、それが独房拘禁といったい何の関係があるのでしょうか?

 無実を叫んでいることだけを理由に、なぜ4年間も独房の中に閉じこめられなければならないのか?これは拷問及び残虐な刑罰以外に何ものでもありません。

独房生活を何年もしていると、一番恐ろしく耐え難いのが孤独感なのです。
平野さんは閉鎖恐怖症をご体験なさったことがありますか?
自分の意思とはまったく無関係に、ある時突然全身が空気に押しつぶされるような苦痛に襲われることがあります。狭い空間に閉じこめられ、自分の意思で自由に出られないという強迫観念と孤独感から来る症状なのですが、短くは10分、長ければ何時間も人間が感じられる最高調の極限の絶望感と、想像を絶する精神的な苦痛に苛まれます。

 独房の中で自殺するほとんどの囚人は、この閉鎖恐怖症という一種の拘禁症状に襲われた時に、うまく乗り切ることができず、自ら命を絶ってしまうのです。特に、まったく身に覚えのない無実の罪で、拘禁生活を余儀なくされている冤罪被害者の場合は、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか?」という、決して答えの見つからない話題(悩みの種)を抱えて苦悩することになりますので、すべての現実を自己の行為(犯罪)の結果として受け入れる犯罪者の孤独感とは、本質的に次元の異なる極限の苦痛を体験することになります。

 私も独房に収容されて約1年くらい経った頃には、ときどき襲ってくる閉鎖恐怖症にずいぶんと悩まされました。それがある程度少しづつ慣れてくると、どうせ避けられないことであるなら、何とかうまくつきあおうと思い始めました。

 歓び、悲しみ、憤怒などが人間の有する自然の感情であるように、孤独感もやはり人間なら誰もが持つ本質的な要素なのでしょう。その本能に近い感情とうまくつきあうことができず、何とか逃げようとするのです。独房の中で過ごす歳月が一日一日長くなっているうちに、もし孤独が人間の本性であることを認めてしまえば、実は独りであることが、もっと楽になれるのではないかと思うようになりました。

 それに加え、孤独には今まで私が知らなかった治癒力があることも知るようになりました。この中で孤独に出会ったとき、それを否定することなく、全心(註・ママ)で抱きしめることができれば、広がっている傷を癒す方法もはっきりと見えてくるはずだと思います。
 発想の転換を上手くできれば、孤独も時には立派な友人になりますから。

 矛盾ではありますが、人間がある感情を避けようとすればするほど、逆にそれがもっと執拗に人間を追ってくることがあります。その不便さをなくす唯一の方法は、それを除去することではなく、変化させることであると思います。

自分自身に有益になれるよう、肯定的に変化させること。
もちろん、そう簡単にできることではないのですが・・・・・
 孤独それ自体より、結局の所孤独を否定する人間の心が、自らを闇の監獄に閉じこめてしまうのではないんでしょうか。 
 私の人生の相克が今後、どれほど長引くのかはわかりませんが、いつかはきっと無実の身になれるというわずかな希望の光を信じて、今、この瞬間も孤独とつきあっています。太初以来、闇が光に勝ったことは一度もなかったですから。
 頭の中に想念がとりとめもなく浮かび、世迷いごとばかり書いてしまいました。申し訳ございません。

 実は今日は、4年目を迎えるチェリー(註・被害者の愛称)の命日なのです。チェリーがいていると、今年でちょうど30歳になりますね。
 冤罪は、逮捕された無実の被告人のみならず、すでに真だ被害者を二度殺す重大な犯罪行為であります!
 しかも、それが国家の生命と財産を守るべき国家と、無辜の救済を理念とする司法の名において行われていることに限りない憤りと恐ろしさをおさえ切れません。
 どうぞこの理不尽な現実に、そして自殺した司法に怒って下さい!

敬具

平成20年6月13日。

無実の張禮俊より