平野久美子 TOP TOPICS JORNEY TAIWAN DOG BOOKS TEA
トオサン世代(日本語世代)、最後の遺言
TAIWANトップへ
以下は、「日本語世代・最後の遺言」と題して2014年9月13日に「読売カルチャーセンター」川崎教室にて講演した内容をまとめたものです。85歳を越えつつある彼らの現状やアイデンティティーを、改めて考えてみたいと思います。

※なお、今回のトオサン世代アンケートにご協力いただいたすべての皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます
  私は2004年から5年にかけて台北の国立師範大学に通いながら、ロングステイを試みました。この間、多くの年配者と知り合いになる機会を得ました。帰国後の2007年に『トオサンの桜』(小学館刊)というノンフィクションを出版し、日本語世代=トオサン世代(多桑。日本語の「父さん」が台湾語となったもの)がどのような心情を抱えて戦後の台湾社会を生きて来たのか、日本に対する愛憎ないまぜの感情はどこから生まれてくるのか?などを体験と取材の中からあきらかにしようと試みました。
彼らと長い時間をかけて話しをして思い知ったのは、台湾のトオサンたちは私の父親の化身のような存在であるという事実でした。このあたりのことは拙著をお読みいただくとして、ここではあまり詳しく申し上げませんが、彼らの心に沈殿するおりのよう悲しみ、戦争のトラウマ、戦後社会に対する違和感、子供世代との断絶感などは、日本の同年代の年配者と驚くほど重なっていました。
「どうせ話したってわからない」と言い続けて、戦争の話しをほとんどしてくれなかった父と、戦前のすべてを軍国主義と忌み嫌って、父の苦労に見向きもしなかった娘。私は父と気持がずっと通じないまま永遠の別れをしてしまいました。今から思うと、私はなんという親不孝をしたのでしょうか。ですから、よけいに台湾の年配者の話のひとつひとつが身に染みて、あるときは彼らの話を聞きながら感情が高ぶり、思わず号泣しそうになったこともありました。なぜもっと戦中の苦労や戦後社会に対する複雑な気持ちを理解してあげなかったかと悔やむ気持が年々募り、彼らのもとに向かわせたのです。

 台湾では、日本統治時代の教育を受けて今も日本語が話せる人々をトオサン世代と呼びます。1994年に呉念真監督が制作し、台湾でヒットした映画『多桑』にちなんでこのように呼ぶようになりました。主人公の炭鉱夫は、日本統治時代の教育を受けて育ち、戦後社会に強烈な違和感を抱いて日々を送ります。そのモデルは監督の父親だそうです。
さて、トオサン世代の定義ですが、私はその日本語能力だけではなく、以下のような条件も加える必要があるだろうと思っています。

*道徳観や価値観を日本人とある程度共有している
*日本及び日本人へ愛憎ない交ぜの特別な感情を抱く
*中華民国への違和感を抱く
*台湾人意識が強い

日本語能力だけが彼らの特徴ではありません。それについては後ほどもう少し詳しくお話ししましょう。
 日本の敗戦時に公学校の上級以上に在籍していた人々に限って言えば、「トオサン世代」と呼ばれる台湾人は、すでにほとんどが85歳以上になっておられます。台湾の総人口約2330万人のうち、彼らの割合がいったいどれくらいなのかといえば、正確な数字はもはやわかりません。おそらく全人口の2パーセント弱。どんなに多く見積もっても日本語で読み書きできる人々は40万人前後まで減っているのではないでしょうか。

 トオサン世代の概数を推理するひとつの手がかりは、中華民国内政局が発表している2012年度人口調査です。少し条件を緩和して、81歳以上の年配者の総数を見てみましょう。すると全国で59万8280人。約60万人としてここから戦後台湾に渡ってきた中国人(外省人)の概数をその13%ほどとして約10万(かなりおおざっぱではありますが)引きます。それに1941年当時の公学校就学率である75パーセントをかけると40万人を切ってしまうのです。

 別の数字をあげてみましょう。1941年に台湾総督府が発表した公学校と日本語学習所の卒業生の総数は約324万人でした。当時読み書きが問題なくできるとされた割合である38,3パーセントをかけ、90歳まで生きる生存率21・6パーセントをさらにかけてみると26万8000人あまりになります。
したがって、どんなに多めに見積もっても日本語が達者なトオサンたちは50万人以下のような気がするのです。つまり、人口比に占める割合は、原住民の総数2パーセントと似たようなものと言わざるを得ません。
さらに、トオサン世代の中でも和歌が詠めたり高度な日本語能力を持ち、日本的なわび、さびなどの美意識が理解できる人となればもっと少なくなります。約50万人のトオサンたちがまだお元気でも、当時の中等教育が台湾人に対して狭き門であったことを考えると、中等教育以上の就学者は全体の一割に満たないのではないでしょうか。さらに門戸を閉ざしていた高等教育―つまり旧帝大や高等専門学校を卒業しているエリート層ともなれば、1000人、2000人という数字かもしれません。
戦後からすでに70年。台湾でも日本語世代のプレゼンスは下がり続けています。トオサンたち自ら「絶滅危惧種」だと言うのは無理ありません。

 2014年6月に台北で行ったアンケート調査に答えて下さったある方は、こんな一文を寄せてくれました。*アンケートは文末に掲載。

  「最近、日本語族(時に台湾語族)の孤立感が深まっているように感じられます。身近なところでは商店、コンビニ、会社や政府機関のサービス電話で先ず耳に入ってくるのは中国語(以下 普通話と書きます)、それも早口だから高齢者にはよくわからない。延々と続く録音にはお手上げです。
病院で医師が注意事項を説明するときでさえ、普通話を先に使う人が増えてきました。「先生、台湾語で説明して下さい」とお願いすると、変な顔をして、はじめて台湾語で説明してくれます。(中略) 中国語族の孫の世代とは完全な交流ができない、めまぐるしく変化する新しい日本語を話す日本の若者の言うこともよくわからない。だから日本語族と言ってもいたるところで交流不完全という壁にぶつかります。孤立感が高まる理由です」
本省人(開拓時代から台湾に住み着いている人々)と呼ばれる彼らの母語ですら、台北ではこの有様ですから、日本語でのコミュニケーションは限られた仲間や伴侶とだけになります。それでも彼らは、趣味のサークルなどを作って日本語で話したりNHKの 衛星放送を視聴したり、日本の歌謡曲を聴いたり歌ったり、日本から本を取り寄せたりと、それぞれが努力をしているのです。
  私が日本語世代と知り合った初めの頃は、親日家であるがゆえに日本語をずっと大切にしてくれているのだろうと、思ったりもしました。しかし、長いおつきあいを重ねるうちにどうやらそれは間違っていることに気づきました。
日本語を禁止された戦後社会においても、彼らはなぜ日本語を母語のように使い続けてきたのでしょうか?
その理由を類推すると以下のようなことが考えられます。

1 日本語は自らの感情や思想の表現手段であり続けた
2 原住民の場合は、部族間、異民族間の共通の言葉として機能した
3 仕事のための道具として有益だった
4 戦後の蒋介石政権に対する抵抗の意味を持っていた
5 エリートとしての証し(教養が高い、日本精神の持ち主)にもなった

4,5番の理由を説明いたしましょう。
戦後、祖国に復帰すると台湾人なら誰もが期待した「光復」。しかし、大陸からやってきた国民党政権はまったくその期待を裏切るものでした。戦後の経済混乱、汚職、民度の低さ、白色テロ、言葉や文化に対する差別、などなど、こんなはずではなかったという思いが、台湾人の心に広がります。そうした状況下で、台湾人は大中華主義に対する不服従の意思として、日本の言葉を使い続けてきたのではないでしょうか。1947年に起きた228事件の際も、日本語を使えるかどうかが、台湾人と中国人との区別になりました。 つまりトオサン世代は、台湾語と日本語を使うことで中国人とは違う自分たちのアイデンティティーを支えてきたと思えるのです。
また、近代日本の教育を受けたという自負(大陸からやってきた無学な兵隊とは違うという自負)が、日本語や日本文化への接近につながったのだと考えます。もちろん、最も感受性の強かった青春時代にすり込まれた言葉や文化ですから、その後の人生に影響するのはあたりまえですが・・。
 ここで、トオサン世代を含めた台湾人のアイデンティティーについて考えてみたいと思います。

 そもそも「アイデンティティー」はアメリカの心理学者エリクソンが最初に使い始めた言葉です。「自分とは何者であるか?」この問いに対する答えは、自分を規定する歴史、文化、道徳、環境、風俗、宗教の総合体によって決定されます。ということは、日常の連続性から形づくられるのではないでしょうか。
國學院大学教授の心理学者野村一夫氏は、宮沢賢治の処女詩集『春と阿修羅』に出てくる文言に注目して以下のように解釈しておられます。
「自我というのは実体のない現象であって、確固たる概念みたいなものではない。いわば灯り続けるランプみたいなもの。しかも「交流電灯」だ。→人と人、歴史と自分との交流により自分は規定されている。」
つまり、デカルトが言う「我想う、ゆえに我有り」ほどはストレートなものではないということでしょう。
イギリスの心理学者ロナルド・レインはこうも言います
「自己のアイデンティティーとは自分が何者であるかを自分に語って聞かせるストーリーだ」
“自分を納得させる物語“には、それを承認してくれる他者の存在が必要となります。他者が納得してこそはじめて、自分の中で自分がより強固に確立していくわけです。したがって、レインは、アイデンティティーとは観念でなく、社会的なもの=他者に見られている私なのだと、定義します。
 日本のメディアに登場するトオサン世代の方々の中には、日本人に向かって元日本人としての体験を語り、それを承認してもらうことで、自分の中の文化アイデンティティーが日本を向いていることを確認している人もおられますね。酒井充子監督の作品『台湾人生』や『台湾アイデンティティー』でもそうした反応が見られました。
 年々その数を減らすトオサン世代。彼らは次世代の日台の若者に何を一番遺言として残したいのでしょうか?
その真意を探るには、彼らの功績を知る必要があると思います。以下に4つの功績を記しますのでご覧下さい。

1.日本統治時代の光と影、両面からの証言者

 トオサン世代が比較的冷静に現代史を分析できているのは、戦後の国民党政権との比較をしながら日本統治時代を眺めているせいだと思います。
現代史の証言者として、戦後の反日一辺倒の教育を受けた子供世代に、日本統治の光と影を伝えてきたことは特記すべき功績でしょう。
ただ、誤解がないようしていただきたいのは、日本統治時代の50年を諸手をあげて賛成している人など一人もおられないということです。日本人は確かに台湾の近代化に貢献してきましたが、一方で台湾人の政治参加を拒否し、就学、就職に不条理な差別を設け、二等国民として扱ってきたのは事実です。こうした屈辱が、戦後70年経っても心に澱のようによどんでいるのは当然でしょう。トオサン世代はある部分「親日」ですが、彼らの日本へのまなざし、特に戦後日本へのそれは厳しいものがあります。


2.戦前のよき美徳、普遍的な価値観を家庭や職場で実践

 「嘘をつかない」「時間厳守」「勤勉」など、戦前の学校が生徒たちにたたきこんだ道徳観が、彼らの人格の一部にさえなっています。語学エリートの方々は、わび、さび、といった美学を理解しますし、「水に流す」といった潔さなどは全般的に引き継がれた特質と言えます。
 こうした戦前の美徳を私たち現代の日本人はどこまで実行できているでしょうか。昨今企業から役所、学校の先生に至るまでモラル崩壊が問題になっている日本の現状からみると、台湾のお年寄りは古き良き日本人に見えるのです。


3.台湾人アイデンティティー(台湾人意識)を次世代に継承

 これこそが、トオサン世代の最も大きな功績であり、最後の遺言につながる部分だと思います。台湾人意識は、清朝時代はまだ芽生えていませんでした。漢人なら出身地アイデンティティーだったでしょうし、部族神話が支えになっている原住民は、漢人とは違ったアイデンティティーを持ち続けていました。
そこへ、まったく異質の歴史と文化をもった日本が1895年にやってくると、日本という支配者に対しての抵抗の証しとして台湾人意識が盛り上がったのです。
「自分たち台湾人は漢民族ではあるが中国人ではなく、日本国籍を持っているが大和民族ではない」とある台湾の学者が分析していますが、まさにそういう認識を持ち続けて統治時代を過ごされたのだと思います。


 1945年、日本の敗戦で日本人が去り、代わりに大陸から同胞の中国人がやってきました。祖国復帰です。しかし、国民党政権は多くの台湾人を失望させました。過酷で不平等な扱いにより、台湾人を中国という「ナショナルアイデンティティー」に吸収することに失敗したといえましょう。こうして戦後も台湾人意識は政治的アイデンティティーとなって受け継がれていきます。
1990年代から台湾の民主化が進むと、中華民族主義に対しての台湾民族主義として、盛り上がってきます。こうした流れの中心的存在が、政治的迫害を経験して民主や自由の意味を知り抜いたトオサン世代だったのではないでしょうか。


4.日本との架け橋役を務める

  トオサン世代が、日台をつなげる架け橋となってくれたことは、戦後の私たちが感謝してもしきれぬほど大きな功績です。そのことを日本全国民が知ったのは2011年3月11日東北地方で起きた東日本大震災直後のことでした。台湾からの巨額な義捐金と物心両面での支援。多くの日本人は、なぜ、そこまで台湾は親日的なのだろう?と素朴な疑問を持ったに違いありません。台湾全土をあげての支援活動の背後には、戦前、戦後にわたってトオサン世代が大切にしてきた日台の絆があることを私たちは忘れてはならないのです。それは先人たちが築き上げてきた絆そのものなのです。
今回実施したアンケートでも、そうした歴史を肌で知るトオサンたちから「台湾と日本がこれからもずっとよい関係を続けて欲しい」というメッセージが多く寄せられています。


 
 さて、いよいよ本日のお話も結論に向かいたいと思います。
トオサン世代を始めとする多くの台湾人の努力で、すでに82.9%の人が「自分は台湾人」(新台湾智庫の最新調査)と思うようになっています。自分は文化的には中国圏に属していても、中国人とは思っていないのです。トオサン世代が、日本統治時代に日本語をしゃべっていても自分は大和民族ではない、と思っていたのと同じでしょう。
2014年3月18日、与党国民党が大陸との間で協定を目指した「サービス協定」に反対して学生たちが立法院を占拠しました。「太陽花学運」と言われる民主運動は、香港にも飛び火しましたね。
学生たちから始まった抗議活動は市民の間にも支持を広め約50万人が総督府前の集会に集まりました。トオサン世代はこの動きを熱烈に支持しています。なぜなら、どの民族も自分たちの将来は自分たちで決める権利があるからです。
台湾の未来は台湾人が自ら決める。これこそが、トオサン世代が次世代に残したい遺言ではないでしょうか。現に、アンケート集計の結果でもこのご意見が一番多かったのです。
「多桑(とうさん)たちのラストメッセージ」日本語世代アンケート結果(WORDファイル 26KB)
 では、日本語世代が消滅してしまったあと、台湾人と日本語を介してつきあっていくことは可能なのでしょうか?
答えはイエスだと思います。

 台湾の中等教育では、1999年7月から2004年12月まで第二外国語が導入されました。中高一貫教育の学校で必修科目として日本語を教えているところも増えています。また、クラブ活動として日本語学習を行っているところも多々あります。高校、単科大学、大学になればさらに日本語教育を行う学校が増えています。そのほか、学習塾、語学学校の隆盛、社区大学での社会人生徒の増大などなど・・・。トオサン世代がまったくいなくなってしまった後も、日台の交流に日本語は活用され続けるでしょう。
とはいえ、比較的若い世代は、現在のトオサン世代のように日本の歴史や文化を深く理解できているとは思えません。残念ながら日本の若者も同様です(いや、台湾よりもずっと勉強不足です)。双方の青少年にとって、アニメやファッションやポップスといったマスカルチャーの中の日本は共通の言葉として語れるのですが、歴史になると双方ともお手上げです。今後は互いに学び、理解し合う努力がもっと必要になってくるでしょう。その意味で、トオサンたちがいつまでも元気で過ごし、若者たちに多くのことを教えてほしいと願うばかりです。
 
 台湾、日本、ふたつの国(祖国、母国)のはざまでアイデンティティーが揺れ動き続けきたトオサン世代。その複雑な胸の内を「生みの親として台湾」、「育ての親として日本」と喩えて話しをしてくれますが、私たち日本人はそうした台湾の歴史に直接関係を持っているのですから、その心情に出来る限りより沿うことが大切だと思っています。
私自身も機会あるごとに彼らと話しをして、出来る限り歴史の証言を聞きたいと思っています。
 今日はご静聴有り難うございました。
2014年1月末に台湾の日本語世代と日本からの参加者と合同でお花見ツァーを開催。
こうした交流の場をこれからも大切にしていきたいと思います