平野久美子 TOP TOPICS JORNEY TAIWAN DOG BOOKS TEA
台湾の世界遺産候補地を日本から支援しよう!
                という趣旨で『正論』誌に記事を掲載しました。
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富士山に続け!
かくも美しき台湾文化財を世界遺産へ

 2013年6月に、カンボジアで開かれたユネスコの世界遺産会議で、富士山が正式に「文化遺産」として登録された。その秀麗な姿は言うまでもないが、山岳信仰の対象として、芸術文化の源泉として、”顕著な普遍的価値”世界に認められたことになる。
 登録申請運動が地元で持ち上がったのは1992年。当初は、「自然遺産」を目指したが、山麓のゴミ投棄や屎尿汚染が問題となり、戦略を練り直して文化遺産に挑戦。官民一体の清掃活動や署名運動、環境保全対策、普遍的価値のさらなる考証が功を奏し、正式登録にこぎつけた。
 この朗報を、日本人同様に、いや、人によっては日本人以上に誇らしげに受け止めてくれたのが、台湾のいわゆる多桑(戦前の日本統治時代の教育を受け、今も母語のように日本語を駆使する人々)たちだった。あるお知り合いは、NHKのニュースで知ったからとわざわざ電話をかけてきて「自分のような元日本人にしてみれば、富士山はふたつの祖国にまたがる宝。こんなに嬉しいことはない」と、喜びを語ってくれた。
多桑からの電話を受けて、思わず熱いものがこみあげてしまったのは、80,90代を迎えている彼らが、今なお日本を心の祖国としてとらえていること、あれだけの景勝地や独自の文化遺跡があるのに、ユネスコ加盟を果たせぬ台湾には世界遺産がひとつもないこと、この両方の感慨がないまぜになって心をよぎったからである。

 
 ユネスコに加盟している国の数は現在195(準加盟地域は8)。そのうち大半の190ヵ国が締結している「世界遺産条約」は、1972年に採択された。人類の遺産を、損害や破壊の脅威から保護して保存し、政治や民族の違いを超えて未来へ伝える、という精神を高らかに謳い、そのための国際協力を求めている。人類が遺した偉大な文化や地球上の優れた自然景観は、時空を越えた歴史や文化が積み重なっているのだから、既存の国境や行政区域、イデオロギーとは本来関係がないはずだ。
 ところが、オリンピックの開催地選び同様に、登録までにはさまざまの駆け引きがあるそうだし、台湾の例を取るまでもなく、ユネスコから門前払いをされている国もある。加盟国以外、直接世界遺産の登録申請が出来ないため、危機的状況に置かれている自然景観や文化史跡は数知れない。
 こんな状況に風穴を開けようともくろんだのか、国民の保護意識を高めようと考えたのか、はたまた台湾アイデンティティーの発露だったのか、民進党が政権を担っていた2002年から行政院文化建設委員会(文化財保護を目的とする台湾政府主管機関)が中心となって、候補地選びが始まった。
 プロジェクトを担当している文化資産総管理処準備室のHP(http://twh.hach.gov.tw/TaiwanJ.action)を要約すると「内外の専門家や各自治体の文化処や民間団体の意見をもとにリストを作り、ユネスコの登録基準に照らし合わせながら審査をして、自然遺産、文化遺産、複合遺産の候補地11箇所(太魯閣国家公園、棲蘭山ヒノキ林、卑南遺跡と都蘭山、阿里山森林鉄道、金門島および烈嶼、大屯火山群、蘭嶼島のヤミ族集落と自然景観、淡水の紅毛城を含む周辺の歴史建築群、金瓜石集落、澎湖玄武岩自然保護区、台湾鉄道旧山線)を内定。次に、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の副委員長を務めていた東京大学の西村幸夫教授ら、世界各国の専門家を招聘して現地調査を行い、2003年に、玉山国家公園を追加して世界遺産候補地12箇所を発表した」とある。
 その後、2009年には、金門島および馬祖島の戦跡、台湾初のハンセン病患者の収容施設となった楽生療養院、桃園台地の埤唐(*土へんつく)、烏山頭ダムと嘉南大用水路、屏東県に残るパイワン族の伝統的集落、澎湖島の石滬群が新たに加わった。2010年には、金門島と馬祖島の戦跡を別々に候補地としたため、現在は18箇所に増えている。 そのうち半分の9候補地が日本とつながりの深い遺産だというのに、世界遺産の候補地が台湾にあること自体、日本人にどれほど知られているのだろうか。・・・。


 日台共通遺産の代表格は、1930(昭和5)年に、台湾総督府の技師八田輿一(1886~1942)によって造られた烏頭山ダムと嘉南大用水路だろう。現在も、台湾中部の約10万ヘクタールの米作地帯を潤している烏山頭ダムは、当時としては斬新なセミハイドロリックフィル(コンクリートを堰の中心にだけ使い、土砂を水で締める)工法を採用したため、生態環境が保存され、自然と融合した美しい景観を生み出している。複雑に入り組んで珊瑚の形に見えるダム湖は、岸辺の樹木によって青々と染まり、多くの命を育んでいる。
 戦後も地元の農民が手厚い維持管理をしてきたおかげで、世界の土木遺産の中でも、例がないほど完成時の姿をとどめている。そのため、世界遺産登録基準の第4項(人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築群、技術の集積、または景観)にのっとって、候補地となった。
 日本と台湾の水の絆を育んできたこの水利施設を、日台両国で共同登録しようと、2009年に署名運動が行われたことをご記憶の方もおられるだろう。同じ年に(社)日本土木学会が、烏山頭ダムを「日本海外土木遺産」として認証したこともあり、八田輿一の出身地金沢市では大いに話題を呼んだ。しかし、その後運動は尻つぼみになってしまっている。
 阿里山森林鉄道も日本とのゆかりが深い。東アジア一の最高海抜(2451メートル)を走るこの登山鉄道は、20世紀の初めに開通した。当初は、阿里山のヒノキなど豊富な森林資源輸送を目的に敷設されたが、その後何度か延伸工事や支線の敷設工事が行われ、1920年からは、沿線住民の輸送も始まった。日本とアメリカの最先端技術を取り入れただけあって、2000メートルに及ぶ高低差をものともしない。沿線の植物が、温帯性から熱帯性へと移り変わる風景に、誰もが台湾の豊富な生態系を実感するだろう。
 阿里山森林鉄道は、登録基準の第1項(人類の創造的天才の傑作を表現するもの),3項(現存する文化的伝統のまれな証拠)、4項(人類の歴史上重要な時代を傍証する技術の集積)にあてはまり、複合遺産の候補地となった。
 北部の新北市にある銅と金の採掘場「金瓜石集落」は、1905年に日本が採掘を始め、戦後も1987年まで稼働していた。台湾鉱業史がそのまま展示場になったような遺跡である。山から降りてくる霧の中に現れる水南(*さんずいが付く)の採掘跡は、SF世界を彷彿させて迫力満点。一帯は、日本統治時代の住居や工場が映画のロケ現場のようにそのまま残っていて、長崎県の海底炭鉱集落跡をとどめる軍艦島=端島を思い出す。年々、集落の存続が難しくなってきているため、文化遺産登録基準第5項(回復困難な変化の影響下で損傷されやすい状態にある伝統的集落郡、または土地利用の顕著な例)を適用し、候補地になった。
 2013年4月に訪ねた時、親子二代にわたって現場で働いていたという陳石成(80)さんに出会った。
「このあたりはまだ昔の様子をとどめています。仕事の思い出以上に子供時代の懐かしさがあふれているから、大切に保存したいのです」
陳さんたちのような戦前の採掘場を知る従業員は少なくなったけれど、彼らは解説員として保存協力員としてボランティアをしながら、金瓜石集落が世界遺産になる日を待ち望んでいる。
 台湾総督府が1930(昭和5)年に建てたハンセン病患者の隔離治療施設「楽生療養院」も文化遺産の候補地になっている。この春に、台北駅から地下鉄を利用して訪問してみた。新荘駅前からタクシーで向かった楽生療養院は、ごちゃごちゃした街並みに飲み込まれそうになりながらも、新館の病院棟の裏手、緑したたる区画で時を刻んでいた。
 1943(昭和18)年に14歳で発病し、以来、この療養院でずっと過ごしてきたまさ子さん(日本名)は、日本統治時代と戦後の国民党時代の隔離政策を体験した生き証人のひとりである。昨今、ハンセン病患者に対する社会の偏見がなくなり、自由に、思いのままに生活できることを毎日感謝しているまさ子さんらは「今が一番幸せです」と微笑む。現在の患者数は184名。社会から隔離された施設の中で苦楽をともにしてきただけあって、全員が家族のようにいたわり合い、励まし合っている。私は彼らの明るい笑顔に、心底救われた思いがした。
 患者さんで作る保存団体のメンバーが、電動車椅子を器用に運転して、保存区内をくまなく案内してくれる。運動に協力している台湾在住の建築家宗田昌人さんが、日本統治時代、「半切妻」と呼ばれた黒瓦の住宅や、アーチ型の回廊が美しい治療棟、共同浴場、購買部、事務棟、教会など、特色ある建物を解説してくれた。 
 このように建築学的観点からも評価されている楽生療養院は、登録基準第2項(ある時期を通じて、建築、技術、記念碑的芸術、街並み計画、景観デザインの発展に対し、人類の価値の重要な交流を示すもの)が適用されている。
 帰国後、日本植民地時代のハンセン病政策を研究している長崎大学教育学部の平田勝政教授のもとを訪ねた。平田氏は楽生療養院にも何度か足を運び、論文を発表している研究者だ。
「洋の東西を問わず、人類を最も苦しめてきた病気の医療史、それにかかわる人権史にスポットをあてることは大変意味があります。日本、韓国、フィリピン、マレーシア、ハワイなどの施設に拡大して登録申請ができれば、なお意義深いのではないか」
平田教授の言葉通り、日本を始め各国のハンセン病療養施設と連携して、拡大登録するという方法も考えられなくはない。
 このほかにも、日本統治時代と関わりのある候補地は、1908(明治41)に苗栗県三義から台中の后里まで全長15,9キロメートルを結んだ旧山線、1905(明治38)年に、日本の民俗学者鳥居龍蔵によって文化的価値が高く評価されたパイワン族の石板屋集落などがある。


 私が台湾の世界遺産候補地に興味を持ったきっかけは、台湾南部の屏東県に日本人技師鳥居信平が造った地下ダムを取材したことによる。19238(大正12)年竣工のロハスな水利施設は県の土木遺産になっており、地元の有志たちがていねいに保存管理に努めてきた。2007年から2009年にかけて、私は烏山頭ダムとの関係や、日台の水の絆を求めてあちこちを訪ね歩くうちに、ごくふつうの人々が、各地の史跡や景観にそっと寄り添って、掃除をしたり、偉業を語り継いでいることを知った。日本には、その土地代々のゆかりの巨木を守る心配りがあり、住民が主体となって老木を見守り、手入れをしている。中でも桜は特別で、『桜守』という言葉がある。郷土の自然や文化をいとおしみ、目をかけ、大切に守っている台湾の人々の様子が、私には桜守りのように思えたのだった。
 例えば烏山頭ダム一帯の公園区。朝早く出かけると、しばしば清掃奉仕員の人たちに出会う。小鳥のさえずりと竹箒のシャ、シャッという音が響きわたる園内を、八田輿一の銅像へ向かって歩くと、そここでも別の清掃隊が念入りに周囲を掃除している。付近で農業を営む彼らは、代々嘉南大用水路の恩恵を受けてきたのだろう、八田技師に対して変わらぬ敬愛の念を抱いている。
「このあたりはダムのおかげで、それはもう生活が豊かになりましたよ」
「八田さんは台湾の農民のために働いた人です」
「祖父母からいつも八田さんの話は聞いていましたよ」
など、口々に話してくれる。八田輿一の銅像は、こうした農民たちの特別のはからいによって、戦時中は軍への供出を免れたし、戦後台湾に渡ってきた国民党によって撤去されることもなく今日にいたっている。
 烏山頭ダムばかりではない。 戦前からの市民の憩いの場や観光地が候補地に入っているのだ。例えば、世界自然遺産候補地のうち、
台湾の中央山脈にそびえる東北アジア一の玉山(3952メートル、旧称が新高山)は、富士山より高いニッポン一の霊峰として、大屯山一帯は温泉地として、花崗岩が美しい太魯閣峡谷は、エキゾチックな観光ポイントとして知られていた。この3箇所は、日本統治時代に、近江八景にちなんで名付けられた”台湾八景十二勝”にも名を連ねていた。
 1937(昭和14)年、台湾総督府は大屯山、次高太魯閣、新高阿里山の3地区を国立公園にすることを決定、翌年には大屯山と次高太魯閣の記念切手を発行した。事前運動を熱心に行ったのは日台の識者と住民有志だった。1931年にまず嘉義で「阿里山国立公園協会」を設立し、花蓮港庁に太魯閣峡谷の保全を働きかけ、内地同様に国立公園法の施行を求める請願を総督府に働きかけた功績は大きい。そして今も生態系の維持や自然観察ボランティアとして、地元の有志が国家公園区の運営に協力している。



 2011年の東日本大震災で台湾の人々は、親日国家などという言葉だけでは説明できないほど、深い友情と特別な心配りを示してくれた。台湾人の温情に対し、多くの日本人が感謝の念を抱き、台湾のことをもっと知りたいという感情がわき上がったのは当然のことだろう。東日本大震災以後、 台湾を訪れる日本人観光客の数は増え、人的交流はますます盛んになっている。今こそ、ご恩返しのつもりで、台湾の麗しき風景史跡を世界へ発進するお手伝いをしたい。特に、文化遺産は、民族のアイデンティティー、国家の誇りにつながる存在である。戦前から受け継いだ史跡も含め、その価値と恩恵とを未来へ語り継いでいこうとする台湾人のことを、日本にもっと知らせたい。
 こう思った私は、2012年の秋に、在日台湾人2世のメディアプロデューサー辛正仁氏に相談をしたところ、ウェッブやSNS(ソーシャル・ネトワークサービス)を使って社会性をもたせ、日本から台湾の世界遺産候補地を知らしめる運動をしてはどうか、と提案された。そこで、さっそく『日本から台湾の世界遺産候補地申請を応援する会』(仮称)をたちあげる準備に入った。
 ネットで広がる勝手連的な運動にはしたくなかったので、まず台南市へ行って、候補地の選定委員を務める国立成功大学歴史学科の傳朝卿教授の意見を伺った。すると、「日本で広く知らしめてもらうことで、運動にはずみがつく」とのお返事。今年4月には台中にある文化資産管理処にも伺い意見交換を行ってきた。席上、施術國隆副局長は、日本からの支援を歓迎するとともに「当面は、国際的な見地からの保存と、一般への啓蒙が大切だと思っています。結果はおのずからついてくるでしょう」と、息の長い運動を考えている旨を話してくれた。
 現時点では台湾のユネスコ加盟や国連に復帰することがすぐ実現するとは思えないし、たとえオブザーバー国としての地位を得られて直接申請が出来るようになっても、登録は狭き門に変わりない。
 しかも、台湾側にはまだ解決すべき課題がある。中部山脈に位置する国家公園区は、原住民たちの固有の生活と文化を支える土地と重なっているから、より規制の厳しい世界遺産になったとき、環境保全と彼らの伝統文化を守るバランスをどのように取っていくかに、いっそう智慧を働かさなければならない。各候補地の普遍的価値の立証もさらに必要だろう。啓蒙運動が経済効果になって現れれば、自然や史跡に負荷がかかり、保全に新たな問題が持ち上がる。したがって、台湾当局も最終ゴールを見据えながら、まずは内外に台湾の魅力として世界遺候補地を知らしめ、内需にもつなげて啓蒙をしていこうと言うのが直近の目標のようだ。
 それなら、私たち日本人にも出来ることはある。台北中心の食べ歩きに偏った観光情報ではなく、台湾独自の文化史跡や豊かな自然の営みを紹介すると同時に、それらを見守ってきた遺跡守のことをもっと知らせたい。
 課題はまだまだ山積みだが、時間をかけて応援していきたい。と同時に日台双方の遺産が世界に認められるよう、専門家の意見も改めて伺いたい。多くの仲間が同じ夢を見れば必ず実現し、夢は叶う。多桑世代が元気なうちに、日台共通の世界遺産を知らしめる機運を盛り上げられたらどんなに素晴らしいだろうか。こうした運動を始めるのは行政の事務能力でも政治家の力でもない。金なく欲なく下心もなく、ただ、台湾を愛する一般市民が初めの一歩を担っていくのだと、自負している。
『日本から台湾の世界遺産登録を支援する会』